プロフィール
高校、大学時代に友人とロックバンドを結成、音楽活動にのめり込む。2011年から、音まちのボランティアサポーター「ヤッチャイ隊」に参加。2014年から、音まちメンバーを中心に結成したチンドン隊「千住ちんどん」を率いる。飄々とした風情で、何事にも無関心を装いながら、熱い内面をもつ人。現在、平塚に住み、千住まで2時間をかけて通っている。
音楽があれば違う世界に行けた
子供時代、父親がすごく厳しかったんです。成績も良く、不良にもなれず、エネルギーを内に向けちゃうタイプだったのですが、音楽があれば違う世界に行けた。ロック系のバンドを組み、楽器はエレキベースを担当していました。卒業のとき、特にやりたいこともなく、何となく就職したのですが、2001年に結婚し妻が出産した。生後まもなく息子が入院したことがあって、病院に会いに行って顔を見たとき、この子のために頑張りたいと心から思ったんです。
若い頃は、サラリーマン的な生き方が嫌いでした。親父の生き方に反発していたのかもしれません。でも自分が父になったのを機にサラリーマンになり、親父を似ている自分に気づいた。意外と気が短く頑固なこと、また、サラリーマンの仕事も想像に反してめちゃめちゃ自分に向いていたことなど。今も働いている電気系の会社は、1万個に及ぶ部品を組み立てるのが仕事なので、情報を丁寧に整理して、段取りをして、数多くの下請け会社や人の動き方を組み立てていく。そういうことが自分は得意なんですね。
そんな2010年、離婚。しばらくは落ち込み、いろいろなことを考えた。家族を持った10年間、自分がやりたいことを抑圧してきたのかなと。それなら何でもやってみようと思って、大友吉英さんが水戸芸術館で、アマチュア演奏者を集めてやっていた音の企画に参加した。それを機に、大友さんの千住フライングオーケストラにも加わったのです。千住に来たのは初めてでした。人や企画に惹かれて来たので、場所はどこでも良かった。
ヤッチャイ隊からチンドン隊へ
結婚していたときは新しい人と出会うこともなかったのですが、音まちは職場の仲間とはぜんぜん違って変な人が多くて(笑)面白いんです。少しずつ人間関係ができていって、ちょっと手伝うくらいならいいかなってヤッチャイ隊に入ったんですね。まちなかでのポスター貼りなどを手伝いました。ボランティアなので大きな責任もないけど、行けば喜ばれて楽しかった。でも、ひとつのことにどっぷり浸かるのは嫌で、ずっと一定の距離を置いていたんです。そんな頃、ヤッチャイ隊でやりたいことを聞かれたことがあった。阪神・淡路大震災の後、中川敬というミュージシャンがチンドン形式で被災地出前ライブをしたのを面白いなあと思っていたので、「チンドン」って言葉を口にした。それをきっかけに自分もチンドン太鼓を作ってみたんです。工作は得意じゃないけど、同じヤッチャイ隊の小日山さんが何でも作ってしまうのを見ていて、やってみようかなって。それから自分がバンマス的に、みんなに声をかけたりして少しずつ、チンドン隊ができていきました。
今のチームでチンドンをやったのは、大巻伸嗣さんの「Memorial Rebirth 千住 2014 太郎山」のときが最初ですね。ヤッチャイ隊として何か宣伝やろうって話になって。それまでは一軒一軒にお願いして回って苦労していたのですが、演奏しながらチラシを配ったらめっちゃハケるんですよ。つたない演奏なのに、みんな笑顔で振り返ってくれて。その後も、音まちに限らず、出動するようになりました。
動かなければ何も起こらない
チンドンだったり、たこテラス(※)の当番だったり、なんだかんだで毎週千住に来るようになって、葛藤もあるんですけど、何か選択肢があったら僕は「やる」ほうを選択します。動けばそこで何かが起こる。動かないことには何も起こらないから。音まちでは、人との出会い、何かを変えるきっかけがたくさんあった。
僕は地元ではないけど、音まちのやることはいつも気になっていて、音楽とまちとの関わりには興味がある。ミュージシャンって、いろんな場所で演奏し、常に動いていくものなので、チンドンは、そういう音楽の自然な姿のひとつかなと思ったりします。ものごとにはタイミングってあると思うんです。平塚に住んでいますが、音まちを通して知り合った、今のパートナーに動き方によってはそのうちこっち(千住)に来ちゃうかもと思ったり。でもそれじゃ、できすぎた話なので、やはり流れに身を任せるのかな(笑)。
千住は、住んではいないけど、今は仮住まいくらいの感覚にはなっています。千住のまちに対して?「愛」って先に言ってしまってもいいのかなって(笑)。
(インタビュー・執筆:舟橋左斗子)
※ たこテラス:ヤッチャイ隊の有志が運営する空き家を活用したコミュニティスペース(現在は閉館)
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