プロフィール 伊原千惠子|いはら ちえこ (仲町の家コンシェルジュ)
千住東生まれ。人生の大半を千住東で過ごしている。
結婚後、専業主婦として息子2人を育てる。息子たちが中学入学後、働き始め、新聞販売店、結婚情報サービス会社などに勤めた後、68歳のとき、千住旭町にBarイースト開店。長男の修太郎さんが音まちの活動に参加していたことがきっかけとなって、音まち関係者が出入りするBarとなる。80歳まで続けるつもりだったが、足に痛みを感じるようになり惜しまれながら4年半で閉店。2018年7月より、仲町の家のコンシェルジュとして週に1日常駐している。
躾にならない!? 千住の子育て
江戸っ子気質っていうんでしょうか。父は威勢が良かったですね。男尊女卑を絵にかいたような人で、夜遅くまで飲み歩いて帰ってきたときに箸を持たせなかったら怒るの。「誰が働いてると思ってるんだ!」ってね。母は黙って我慢して風呂場で泣いて。私の性格はもともとは母似で、耐え忍ぶ昔の女でしたけど(笑)、あるとき「冗談じゃない!」って思ってからこんなのになっちゃった(笑)。父の気質も受け継いでいたんでしょうかね(笑)。いつからかしら。子供を育てたからかしら。
私と妹が、結婚して買ったマンションを売って、千住東の実家を4階建てに建て替えたの。1階に両親、2階に妹の家族、3階にうちの家族、4階は子供部屋で私と妹の子供4人がいてね。もう凄まじい賑やかさでしたよ。6か月おきに子供が生まれたから、母親別の双子みたいで。1回のお風呂で4人入れたり、幼稚園の送り迎えは自転車の前後に載せて1人は背中におぶって、雨の日は傘さして。あるとき雷が鳴って、子供が自転車の上に立っちゃった。「立つんじゃないよっ!(怒)」って叫んで。だから今でも子供たちは私も妹も「ママ」って呼んでます。
周囲の環境も、今思えば良かったですよ。3歳か4歳のとき、子供が悪いことすると、ここで怒らなければならないときってあるじゃないですか。それで一生懸命怒ってると修太郎(上の子)がぎゃあぎゃあ泣いてね。そしたら近所のおばさんが出てくるんですよ。「そんなに怒っちゃいけないよ、うちへおいで」とか言って連れてっちゃう。躾しようと思っているのに躾にならない(笑)。小遣いもいくらって決めて渡してるじゃないですか。それなのに親の知らないところでおじいちゃんおばあちゃんのところへ行って500円1000円ってもらってるの。それじゃあ不自由ないわよねえ、まったく(笑)。黙ってな、って言われて、子供達はちゃんと黙ってるの(笑)。でも、子供ってそういう場所があるとものすごく安心するんですよ。1階に降りれば何やっても絶対に怒らないおじいちゃんがいる。ここは絶対大丈夫みたいなところがあるって、子供には一番大事なことですよね。親は育てなくちゃなんないから怒んなくちゃなんないけど、おばあちゃんはただ可愛がればいいでしょ。今は毎日うちの孫が来てますけど、ただひたすら甘やかしてる(笑)。
50万払うから今すぐ5歳になって!
今の時代の子育てはそういう意味では孤立している。だからおかしくなっちゃうんでしょうね。子供がどんどん憎らしいくらい嫌いになって。その気持ちはよくわかりますよ。私なんて恵まれた環境だったと思うけど、それでも、この子が早く大きくならないかって、お金払ってもいいから5歳にならないかって思いましたよ。なけないしの50万払うから5歳に! ってね(笑)。修太郎が1歳半のときに百日咳にかかってしまったの。百日咳って本当に百日続くんですよ。もうガッリガリになって目ばかりぎょろぎょろして、何も食べない飲まない。で、寝ると咳が出るので一晩中抱いて暮らしてたんです。百日間、泣きながら親子で暮らしたんです。あれはもう、なかなか日にちが経たないの。辛くて辛くてね。
子育てはひとりじゃだめ。いろんなことを話さなきゃだめよね。煮詰まっちゃう。いろんな話を聞くと、心がほぐれていくじゃない?
何もない日はない毎日
子供たちが中学に入ったら楽になりましたね。それで、お友達の喫茶店を手伝ったり、北千住駅前にあった「なか井」の最中のあんこ詰めるお手伝いしたり、その後、荒川区の新聞販売店で12年勤めました。販売店って、1軒1軒のお宅に新聞を届ける仕事でしょ。本当にいろんな人がいるんですよ。知らない世界をいっぱい知りました。パートなのに長かったから店長と間違われていて、警察の方が「もうすぐ出入りがあるかもしれないから流れ弾に注意してください」って言いに来てくれたこともありました。
販売店には配達の奨学生やアルバイトがいて、15地域あれば最低15人は配達員が要るのね。ところがなかなか居つかない。誰でもいいから雇わなくちゃいけない。私がアパート探しもしたし、契約して、その子を部屋に連れて行って、夕方の配達に出てこないなと思ったら、隣の部屋のものを盗んで出て行っちゃったり。「彼女が手首切った!」と言いに来る子がいたり。勧誘員って人も出入りしていて、契約を取ればお金が入るんだけど、簡単には取れないでしょ。そうしたら腹いせに店の自転車を持ってっちゃうの。それを1000円くらいで売っちゃって。もういろんなことが起こって、毎日、何もない日はないくらい。だからすごく強くなった。人を見る目もできちゃって(笑)。
おばさんちみたいなBarイースト
その後もいくつかお勤めしたんだけど、母の介護で仕事を休んだのをきっかけに考えた。これまでたくさんの人と話をしてきたことを活かして私にできることって何かあるかなって思ったときに、「そうだ、Barやろう!」って。Barイーストを始めたのは、68歳のときでしたね。母が亡くなる前に相談したら、「やれば」って言ってくれて、開店費用を出してくれた。ありがたい母よ。それで不動産屋に行って、「Barやるんだけど、どこかない?」って(笑)。大胆に思えるかもしれないけど、最初は怖かった。お酒は飲まないし、この世界を何も知らず、「カシスソーダって何?」ってところからお客さんにみんな教えていただいた。今さら取り繕えないし、ごまかせないから、知らないものは知らない、私はこれです、ってやってたのが良かったんでしょうね。でも、勉強するのが好きだから、そのあと、お酒のこと、勉強しましたよ。
Barでもないし居酒屋でもないし、「どこかのおばさんちに来たみたい」って言われて、音まちのみんながよく来てくれた。Kなんかよく、ウーロン茶とか飲んでしゃべっていって。コーヒーくださいって言うから「インスタントよ」「それでもいいです」って。「もう一杯ください」って言うから「もう帰りなさい」って帰したり。Mなんか「母ちゃん、味噌汁!」って味噌汁だけ飲みに来たりね。だから、トータルでは赤字ですよ(笑)。
私、店ではよく怒ってましたね。みんなが職場の愚痴とか言うでしょ。そしたら「ばかじゃないの?!」「辞めちまえ!」って。彼氏のことで悩んでる女の子には「首絞めなさい! そういう奴は!」って励ましてね(笑)。そう言われるとみんな、すっきりするんじゃない? 人のことで、私は無責任だから何でも言えるし、楽しい4年半でした。おかげさまで(笑)。チャーリー高橋さんがうちでライブしたりね。今、イーストがなくなって寂しいってみなさんよく言ってくれますね。ありがたいことに。
店にはいろんな方が来てくださったけど、みんな何か、楽しいことを探してる人たちだなって思いました。仕事だけじゃなくて、自分が生きていく上でのね。私たちの世代は名のある大学を出て名のある企業に入ったら、定年までそこにいるのは当然だったけど、今はそうじゃない生き方の人たちがいっぱいいるんだなっていうのは、初めて知りましたよ、音まちのみなさんと会って。いいじゃない? って思いました。だって自分の生き方だもの、たとえお金はなくてもね。
この歳になってわかること
昨年6月に店を閉めて、しばらくは全然動けなくて、家でゴロゴロしてました。疲れが出ちゃってね。今は毎日、次男の家族が夕飯を食べに来るけど、孫はどんどん大きくなるし、孫とシュッシュポッポって電車ごっこしてる期間は短いでしょ。これまでは忙しさにかまけて毎日バタバタしてるだけだったけど、今は朝何時に起きてもいいし、何をやってもいい。それって、自分がしっかりしてないといけないなってこのごろ思う。時間はたっぷりあるけど、悲しいかな体力っていうのはどんどんなくなっていきますから、上手に歳をとるのって難しいなって思いますよ。
子供のころは学校が赤坂だったので、同級生はみんな、世田谷区とか大田区から通ってきていて、私だけ足立区で、子供のころはすごく嫌だったんですけど、今は大好きですよ。今はここしか考えられません。何がいいって、とってもあったかいでしょ? それが一番。居心地がいい。下町だから泣いたり笑ったりも多いですが、ご近所も家族も、何ていうか絆が深いじゃないですか。何かあったら助けてくれる。人って結局、あったかい環境でないと育っていかない。この歳になると、本当に思うんですよ、人が優しければ、どんなことも、何とかなるって。
仲町の家、楽しくなるといいですね。これだけのお家、よくありましたね。せっかくこれだけの場所があるんだから、うまく使わないともったいない。まず、草むしりでも掃除でも、できることからします!
(インタビュー・執筆:舟橋左斗子)
【2018年8月発行号掲載 ロングver.】
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