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  • 執筆者の写真音まち千住の縁

映画祭に参加して、このまちが好きになった|工藤 康浩・理佳子

更新日:2020年12月29日


プロフィール

工藤 康浩・理佳子|くどう やすひろ・りかこ (「知らない路地の映画祭」制作委員会)

足立区西新井在住。あだちブレーンプラス(旧足立区政を見守る会)、景観審議委員、ユニバーサルデザイン推進委員など地域の活動に積極的に取り組む。2016年より音まちの「千住・縁レジデンス(友政麻理子/知らない路地の映画祭)」に参加。「知らない路地の映画祭」が音まちから独立してからは、俳優や監督として、中心的にどっぷり関わる。千住仲町のまちを舞台に、現在3作目を制作中。

<康浩さん>北海道出身。建築家。駅の設計が専門。

<理佳子さん>東京(下北沢)出身。企業のお客様サポートなど不定期で勤務。インターネット放送局Cwaveのパーソナリティも。





このままだと絶対マズイ。

(康)工藤夫妻は地域活動のどこに行ってもいるって思われているかもしれないですが、以前は地域とはまったく関わりがなかったんです。僕らはずっと東京の西側に住んでいて、来る予定のなかった足立区のマンションにたまたま引っ越してきたし、僕は駅建築を手がける設計事務所にいたし妻も働いていて忙しかったので、地元に誰も知り合いがいなかった。きっかけというのは3.11が非常に大きくて。日本中みんながショックを受けた大きな出来事ですが僕らも当然、いろいろ考えることがあって。震災のあと東北の人たちを見ていて、地域の人のつながりの強さをすごく感じたんですよ。そういえば僕ら、地元に誰も友達いないなって。ちょうど転職して仕事上でもうまくいかずに人との関係に敏感になっていたときで。このままだと絶対マズイ。地元の人と、まずつながりたいって思ったのがひとつのきっかけですね。

(理)音まちとの出会いは、2016年の「知らない路地の映画祭(通称:知ら路地)」に出演したことですが、工藤と出会う前、役者をやっていたこともあって、1年目は誘われて「面白そうだから」と出演した。でもそのときは撮られっぱなしというか、演出されてる感じもしなかったし、何か「出てるだけじゃ、だめだな」という気がして、打ち上げのときぼそっと「私、監督さんをやりたいな」って言ったのが翌年につながって(笑)。やる以上は、地域の人に出演してもらうぞ、と。

(康)僕の立場で言うと、映画を撮るのは、駅をつくるのとまったく同じなんです。駅づくりは建築物をつくることではなくて、「愛される仕掛けをつくる」、それが本当の駅づくりだと思うんです。実際にはなかなかできないんだけどね。お役所も同じですよね。ここにゴミを捨てるな、タバコを吸うなってルールを決めるのは簡単なんだけど、守られないのは愛されてないからですよね。まちが愛されてたら絶対捨てないですよね。自分の庭にゴミを捨てる奴はいないようにね。だから、ミリオン通りの人たちが参加してくれて、みんなが自分たちのまちをもう一度再認識して大切にしたいと思ってくれたらいいなって。

(理)映画祭の間は、まちの人たちが何かそわそわ、ざわざわしてるっていうのが伝わってくるんですよ。福寿堂の女将さんやSandSand(サンドサンド)さんが、たくさん差し入れ持って来てくださったり、ちょこちょこのぞきに来てくれたり、ふだんは離れて営業してる商店街のお店の人が、会場の仲町の家で顔合わせて話したり、お年寄りが「ここは昔映画館があったまちだ」って思い出してくれたり、そういうざわざわを感じると、私たちのやりたいことはこれだ! って思えた。



文化のあるまちは心地いい

(康)仲町で映画を撮ってて、この商店街のこじんまりした、ヒューマンスケールがいいなって思うけど、僕らは竹の塚に住んでて仲町とは特に縁がなかったので、冷たい言い方をすると、本当はどこでも良かったのかもしれない。ただ、仲町の家が拠点でなかったらこんなに贅沢で楽しい時間は過ごしてないと思う。今、仲町で映画づくりに取り組む時間は、生活の中のものすごく重要な時間になっちゃってるよね。こんないいおっちゃんおばちゃんが翌日仕事だというのに夜中の2時3時まで話し合ってね(笑)。でも仕事で使う頭と、地域活動や映画づくりで使う頭は、まったく違う脳を使ってるんですね。そういう意味ではまったく疲れません!

(理)「このまちの住民」的な感じで過ごさせていただいて、お店の方とお話させていただくと、すごく上品で奥ゆかしい方が多いなって思います。映画祭に参加して、そのまちがざわざわする感じを味わってから、余計にこのまちが好きになった。それに、このまちは「土地」を感じるんです。アスファルトをはがしたら千住っていう宿場町だった土だったり風だったりがある、それを感じます。映画を撮ってると五感を直接刺激されるっていうか。あと、ここには、仲町の家だけじゃなくて藝大やBUoY、芸術センターなど、たくさん文化的な場所があるでしょ、それも心地いいっていうか。文化って大事。たとえば「安心安全なまちづくり」っていくら言ってもだめで、それを本当に根付かせるためには文化、あるいはアートにしないと。

(康)文化があるまちでは、僕らがやることが数奇な目で見られない。ものすごく理解しようとしてくれているし。会社では、超現実的な話とか超日常的な話しかしないでしょ。映画をつくるなんて、夢みたいな話とか、ちょっとできない。知ら路地で出会った人は、みんな「変な」人たちだから(笑)、それがすごく僕らに合うんですよ。デザイナーをやってる姪っ子が、田舎では誰も理解してくれなかったんだけど、映画祭に来てくれて、終わってから大人に混じって話をしたら、みんなと気が合ってそれがすごく楽しかったって言うんですよ。映画はよくわかんなかったけどって(笑)。



地域活動は誰のため?

(康)地域活動というのはもちろん、世の中のためとか社会のためとかいろいろあるんだけど、ベースにあるのは身近な人のためだと思う。

(理)私はやっぱり自分のためだと思う。

(康)そう、自分とパートナーのためだって思ってる。そういう意味では、世の中が求めるものと、僕らが求めるものと、利害が一致している部分があって。映画という表現手段が、僕らのグリーフケア[※1]にとって大きな手段だってことです。

(理)工藤は1985年8月12日の御巣鷹・日航機墜落事故[※2]で新婚の奥様を亡くし、5年後に私と出会った。工藤はまだ「飲まないとやってられない」というような時期でした。私は結婚して遺族になった。大切な人を亡くした遺族というのは、真正面からそれにぶつかっていく人もいれば、社会生活をきちんとしながら悲しみを抱えている人もたくさんいる。ひとつ間違えばぼろぼろになっちゃうような精神状態でも、あと10分で打合せに行かないといけない、締め切りに間に合わせないといけない。日常の中にいながら、そういう抱えるものを抱きしめるように自分のものにしていかないといけない。当初は御巣鷹の遺族であることを口に出しにくい状況もありましたし。数奇な目で見られる傾向があって。

(康)僕は自分自身のグリーフを自分で再生しようと、グリーフワークしている。女房の側からは、グリーフケアしてくれている。それが日常の中に溶け込みすぎていて、女房がどういう風に考えていたのかを確かめたことはなかった。だから映画づくりには個人的にもものすごく意味があって、ふたりの関係性の中で蓄積してきたものを土台にして、映画をつくろうとしているのかなって思います。僕らにとって、地域活動も映画づくりも、ひとつの自己表現という意味で「アート」だと思う。世の中のアートの99%は、いろいろな意味で「グリーフ」につながっていると思うんです。知ら路地は、僕らにとってひとつの表現ツールです。それも、大砲のようなでっかいツールじゃなくて、ちょうどいい飛距離の、鉄砲みたいな感じ。届けたい人に直接届くようなね。それに、今まで生きてきた世界とは違う「藝大」系の人たちと一緒にやるのが、ものすごく今、面白いですね。刺激的です(笑)。

(理)私たちは、ふたりで日常生活を送りながら、毎年8月12日に向かって、日常生活の中で御巣鷹山と向き合ってきたんですね。いわゆるライフイベントと同じです。今でも年に3回登っていますが、報道のたくさん来ている命日には行かなかった。でも、33回忌のときにはじめて慰霊登山をした。そのときNHKの取材を受け、「おはよう日本」で報道されて、本当に、30年以上経ってもまだ暗闇の中にいらっしゃる方がたくさんいることがわかった。その方が、亡くなる瞬間でもいいから「ああ、笑ってもいいんだ」って思ってくれたらいいなって。私たちみたいにちょっと元気な者ができることがあればいいなって。

(康)御巣鷹にも来てくれている、東日本大震災で息子さんを亡くされたご夫妻がいるんですが、息子さんの勤め先を相手に訴訟を起こしておられる。7年も8年もずっと、言い方は悪いが、恨みを募らせてきた。だけど、僕らと出会って、今年のBS放送で取材された知ら路地の活動を見てくれて、「ああ、こういう遺族としての生き方もあるんだ」って気づいてくれたみたいなんです。

(理)放送を見たと言って、メッセージをくださって、その中には、息子さんの命を生かした活動をしていきたいと書いてありました。8.12は本当に大変な事故で、あれだけ大勢の方が亡くなって、遺族同士が寄り添って生きていかなきゃいけないよね、っていうのがある。

(康)どんなに恨んでも息子は帰ってくるわけじゃなくて、また、息子さんがそれを望んでるかというと、父母がいつまでも苦しみの中にいることを本当に望んでいるのかって。僕らもすぐに、今のような活動ができたかというとそうではなくて、ようやく今頃になってやれてる状況で。ただ、そういう人たちの、少しでもヒントになれれば、僕らのやってることが少しは意味のあることになると思うんです。



(インタビュー・執筆:舟橋左斗子)



※1 《グリーフ(grief)は深い悲しみの意》配偶者やこども、親などの家族、親しい友人などと死別した人が陥る、複雑な情緒的状態を分かち合い、深い悲しみから精神的に立ち直り、社会に適応できるように支援することをいう。

※2 1985年8月12日、乗客乗員524名中520名がなくなり、日本中に衝撃を与えた大事故。単独機で史上最大の航空事故とされる。520名にはそれぞれ家族があり、30余年を経ても、最愛の人を突然失った家族の悲しみは続いている。墜落した群馬県多野郡上野村の通称・御巣鷹の尾根は、登山する遺族のために今では地元の人とともに、思いを寄せてくれる多くの人々によって整備されている。



 

【2019年5月発行号掲載 ロングver.】

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