足立区は東京23区の中でフィリピン人の在住者数が最も多い地域です。 異なる文化で育ち、日本へと暮らしを移した人々は、この社会の日常をどのように経験しているのでしょうか。 音まちでは秋の企画に向けて、梅島の教会に集うフィリピンにルーツを持つ人々にインタビューをおこない、彼らのライフストーリーを集めています。 その中から4つのテーマで語られたインタビューの一部を紹介します。 彼や彼女の日常が、「わたしたちの日常」になりますように。
マイラさんの日本人との思い出の話
聖歌隊メンバーのマイラさんは、ギターと歌が上手なみんなの人気者。
出身はフィリピン中部、南シナ海に浮かぶルバング島。
実はこの島、戦後30年にわたってジャングルに住み続けた残留日本兵がいた地。
40年ほど前、発見されて日本のメディアを騒がせた記憶のあるかたも多いはずです。
子供だったマイラさんと残留日本兵の遭遇について聞きました。
小野田さんて言う人なんですよ。むかし、森の中に30年間、終戦を受け入れずに闘っていたんだよね。「ハポン(日本人)、いるんだって、森の中に」って。私が7歳のときからそういう噂ね、噂だけ最初あって。
私たちが住んでいる山の村なんだけど、いたのよ、人が。それで「あれ、人いたよ!」ってこっちは言うんだけど、向こうはフィリピンの言葉しゃべれないから。
その次は、子供たちで教会を掃除してたとき。掃除終わって、「ご褒美ね」って誰かのお母さんがアイス持ってきてくれたのね。そしたらね、誰かが鐘の下にこう、座ってたの!葉っぱをかぶってんの。フィリピン人かなと思って、「あ、軍いるよ!」って、「ここで隠れてるよ!」って。そしたらその人が、「ちょうだい」って言ったの。それは覚えてる。日本語で、「ちょうだい」って。私たちアイス持ってたからさ、暑かったんじゃない。それで、「え? どこの言葉? ビサヤ語?」って思ってたの。そしたら、誰か、ちっちゃい子がアイスをあげたの。そしたらいなくなっちゃったの。
どうしてそれだけ覚えてるかっていうと、私、日本来たときに、「ちょうだい」っていう言葉が聞こえたの。「あれ?『ちょうだい』?」って。それで、ああ、やっぱりあれは小野田さんだったんだ、って。
小野田さんが見つかるまでに噂が流れて、そしたら日本の政府、軍の偉い人も来て、小野田さんの家族も来 て、ジャーナリストたちも来て、いろんな日本人が来たの。で、友達できたんだよ! 仲良くしてくれた、通訳の人。私9歳だったの、そのとき。日本に帰ったあと、クリスマスカードとか送ってもらって。バースデーカードとかさ。本当に妹みたいに仲よかったんだよ。
マジュさんの夢の話
教会学校で子供たちをまとめるリーダーを務めるマジュさんは、現在20歳、看護の専門学校に通っています。
フィリピン人の両親を持ち、高校生まではフィリピンと日本を行き来して育ちました。
二つの国、異なる文化の狭間で悩みながらたくましく成長する、マジュさんが描く夢の話を聞きました。
お姉ちゃんが看護の勉強をしていたんです。とても生き生きしてて。それでいろいろ話も聞いて、看護の道に進もう、と思ったんです。実習は大変ですけど、患者さんは大好き。
実は、高校生のときは、人の役に立ちたいと思っていて、看護師か警察官で迷っていたんです。その頃、周りの友達とかに「警察官が向いてるよ!」って言われて、じゃあ、頑張ってみようかなと思って、バイトのあとお父さんと一緒に走り込みしたり、筋トレしてました。でも、いざ警察官になるための資格を調べたら、外国籍の人は警察官になれないことがわかって。その時はムカつきましたね、なんやねん! 外国人差別じゃん!って。国籍変えようかなと思ったとき、お母さんが反対して。ああ、じゃあもう看護の道に進もう、って。今はとりあえず日本で働きたいと思ってます。
子供の頃は、将来はフィリピンのために何かしたいって、めっちゃ思ってました。ちっちゃい頃から教会で、貧しい人を助けたりとか、イエス様がやってきたことを聞かされて。だから憧れもあったのかな。自分もそういう人になりたい、みたいな。派な人のモデルが、イエス様だったから。でも現実、そんなに簡単じゃないってことがわかって、とりあえずお金貯めて貯めて、貯まったら学校とか建てたいなって思ってるんです。あとは、マンション買って、孤児院みたいなとこをつくりたいな、とかも考えてます。で、自分も看護師の資格取っていれば、まあ安心かなって。子供が病気になっても面倒見れるし。料理もするほうだから、ご飯も大丈夫でしょ。でもまだまだ、もっと真剣に考えなきゃって思ってます。
【2016年8月発行号掲載】
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